2016年6月15日水曜日

霊友会・弥勒山に行ってみた

6月11日、12日。

以前から度々、彼女から「弥勒山」という場所へ行かないか誘われていましたが、
今回は特に断る理由もなかったので、同行することにしました。


目的は、彼女が大切にしているものを私自身が経験し、何を感じるのか知るためです。
先入観に囚われず、自分自身で感じ、考え、答えを出すためです。
「霊友会」というワードで調べてみれば、それはもう大量の情報が労せず手に入りますが、
大切なことは闇雲に信じず疑ってかかることだと私は思います。


その山は静岡県の伊豆大川駅からバスで20分ほどの場所にありました。
バスといっても、駅から弥勒山までの専用直行バスであり、途中のバス停で乗る、
ということは出来ません。山自体が私有地で、一般車では来れないそうです。

殆ど何も知らされていない私は、バスの中で数珠の持ち方であったり、礼拝の所作を教わり、
霊友橋という橋(ここまでを下界というらしい)を渡る際に
「南無妙法蓮華経」 と言うのだと、本当に直前で知りました。

私は色々と疑問が湧いてきました。
数珠の意味は何か? なぜ手を合わせるのか? 南無妙法蓮華経とは何か?
彼女へ聞いてみましたが、当の本人も良くわからずやっているようで…。

まず一つ言いたいことは、
何も分からない人には、その行動の意味するものを正しく伝えるべきです。
そうでなければ、意味も分からないことを 「やらされている」 と感じ、人は真剣になれません。 
(子供がなんのために勉強しているのか分からず、勉強嫌いになるのと一緒)

この後、疑問は書ききれないほど出ましたが、後で自分で調べることにします。


ちょっと先走りますが、霊友会の会員は、「導き」と言って、新しい会員を連れてくることが大事、
と教えていました。 信仰により、人々が幸せになり、それがやがて世界の平和へと繋がる、
ということなのでしょうか。 そう考えれば多少納得できます。
もちろん、経済的な側面もあるのでしょうが…(会費や施設利用費などの)。

弥勒山では、色んな人の話を聞く機会がありました。
多かったのが、「何も知らない人を連れてきた」 という人です。一人二人ではありません。
いいのでしょうか? そんな雑で…。
元々親が信仰していて、私も嫌々やっていました、という人が多かったのも、
そういう慣例が原因なのでは、と思わざるを得ません。

続けているうちに変わっていったという人ばかりでしたが、
でもそれは良い例で、意味が分からず嫌いになり、やめていった人もいるのでしょう。
(そういう人の話は聞けないので)
勧める人が 教えや所作の意味を正しく伝え、そのうえで本人が興味を持てれば、
来る意味を見いだせれば、訪れるべきだと私は思いました。
楽しいから来てみてとか、とにかく来いとか、そんな雑に連れてくるものではないと感じました。
(私は、私なりに目的があって来ましたよ)




話を元に戻して…
山に着くと、比較的新しい宿舎があり、すぐに昼食をとりました。 おにぎりの弁当でした。
食事後、30畳程の部屋に案内され、そこから自己紹介やお題目の唱和、
担当者の紹介(運営側の人なのかな?)、
拝殿(本殿の前にある、礼拝をおこなうための場所。数百人は入れる)で経を読み、
「分科会」 と呼ばれる集まりに参加。

初めて経を読みましたが、意味は殆ど理解できず…。
恐らく大切な教えが書かれているのだろうけど、意味が分からなければ効果も薄い気がします。

夕食をとり、第28支部(多分、地方ごとの支部)の集まりに参加、
その後はレクリエーション。お風呂に入り22時半には就寝。 …なかなか寝付けませんでした。

4時に起床、朝食、6時より拝殿で経を読む。 その後本殿を参拝し、下山。



ある程度は既に述べましたが、本当に色々なことを感じ、想いました。
やたら明るい(声が張る)運営者の方々。 なんだろう、対人恐怖症の逆みたいな感じ…。
元々は人前で話すことが苦手でした、というのだから驚きです。
食事は、たぶん精進料理だと思います。 動物性の食材や、葱などはなかったので。
美味しかったですが、やはりお肉食べたいですね~。
ご来光は綺麗でした。中々都会では見れないものです。心が癒されました。


…長くなりそうなのでまとめようと思います。

話を聞いている中で、「なぜお経を読むのか」という質問がありました。
これについての回答は、どこかの支部長さん?が発言していましたが、理解できず。
(回答になってないし、話のすり替えのように感じた)
そこで、私なりに必要性を考えてみました。

まず、経とは、お釈迦様の悟りをまとめ、文字におこしたもの。キリスト教でいう聖書。(調べました)
一般的に、なぜお経を読むのかは、亡くなった人が成仏できるように
また自分自身がお経の教えを日々の生活に生かすため読むそうです。
言葉に出して読むことで、たとえ意味が分からなくても、
その言葉には力が宿り(言霊のように)、十分に効果があるとか。

うーん… どうも私は、論理的に説明出来ないことを信じるのは苦手です。
なんとなく、神はいると思う。 霊はいると思う。 信じれば救われる。 こんな感じのコトが。
証明できないことなんて、世の中に沢山ありますけどね。
「お経を読むことで、あなたは幸せになれます。 ご先祖様もきっと安らかに成仏できます。」 
こう言われても、私にはイマイチ、ピンとこない。 言葉は綺麗なんですが。


私なら…
「経の意味は良くわからなくとも、故人の冥福をお祈りし、
家族や恋人、友人の幸せを願うことが大切なんです。
そうすると、段々と人に優しくなれる。 人との繋がりの大切さを分かっていく。 
次第に人間関係が豊かになり、自分や周りも幸せになれるんです。
もちろん、経の意味を正しく理解するにこしたことはありませんが、
仏教ではこの経を読むことで、言葉に力が宿り、十分に効果があると言われています。
あとは、あなたがそれを信じられるかどうかです。」

こんな感じに説明されたら、なるほど、と思うかもしれない。
じゃあ、経でなくても良いのでは?
人々への想いを日々言葉にし、大切にすればいいのでは?

それはそれで、良いことだと思う。 
お経を信じ(読むことで効果があるのだと信じる)、故人の冥福を祈る、それもそれで良いと思う。
大事なことは、人を想う気持ち、愛であり、それを日々
自覚・自認するための 手段・形 としてお経があるのではないかと思いました。



弥勒山での2日間、人と語り合う機会がたくさんありました。 
その結果、人に対して多少なりとも優しくなれた、人に対しての恐怖心が薄れた、
徐々に自分を出せていけた。 こんな感覚は確かにありました。 
そう考えると、ゆくゆくあんな感じの運営者(川岸青年部部長みたいな)になるのも納得です。 
まとめると、弥勒山での2日間は人間関係を育む場でした。

私としては、人を大切に想う気持ちを 日々再認識すること
(霊友会の皆がお経をあげていることが、それにあたると考えている)は良いことと感じたので、
仏壇でもあれば、日々 家族や故人、友人の幸せを願おうと思いました。
これはあくまで私なりの形です。

また、その 「形」 に、あまり多くをかけるべきではないとも思いました。
お金や時間、健康、もろもろをかけてまで、その形に拘るべきではないと。
「フランスに行って、お経をあげると先祖が喜ぶ」 「純金の仏具の方が効果がある。」 
みたいなことは、なんか違うでしょ?


繰り返すけれども、大事なことは、人を想う気持ち、愛であると私は考えます。
法華経の教えや、経の内容も理解せず、ただ経を読め、
そうすればお釈迦様と同じ佛(ほとけ)になり、功徳(ご利益)を得られ、
永遠の幸せを手に入れられる、そんな話を盲信するのは、それこそオウム真理教の二の舞です。

行動(お経を読むことや、手を合わせることの所作など)や教えの意味を正しく理解し、
そのうえでそれが正しいと感じるのであれば、
その教えを信じようと思えるなら、宗教には意味があります。
ただなんとなく続けるものではありません。





まとめ

  • まずは自分自身がお経や所作の意味を正しく理解すること(勧誘の大前提です)
  • 大切なことは人を想う気持ちや心であり、お経はそのための手段の一つ
  • 手段には、多くをかけるべきではない (真に大切なことを見極めよう)
  • 後は自分自身が信じられるかどうかだけ